研究学園都市
研究学園都市は東京の人口を疎開させることを目的に、筑波山麓約5200へクタールを候補地として聞発が予定されていた都市構想でした。昭和38年8月、閣議の了承をうけ、39年度から日本住宅公社が開発に着手しまとたが、進出機関の反対や調整が整わず、造成が遅れていました。当初は政府の試験場、研究機関を中心に宮庁都市とする計画だったために、新官庁都市とも呼ばれましたが、のちに民間を含めた整観灘、大学などを招致する構想に改めたため、研究学園都市の名前が使われるようになりました。東京およびその周辺地区との間を一時間半程度で結ぶ、高速道路の整備が計画されていました。
多核都市はいくつかの都市が、機能的に結びついで、一つのメガロポリスなどを形づくるとき、それぞれ元の都市は、新しく形づくられる都市の核のような形になります。それらの核は、それぞれ違った性格を持ち、都市機能も分担するような格好になる場合が多く、都市の成長によって、多核都市が生まれてくる場合の他、最初から機能分担を考えて、計画的に多核都市をつくっていくべきだという考え方もありました。

copyrght(c).家計と都市交通.all rights reserved