家計と都市交通
70年代に入ると、世界の都市交通は自動車文明の行きすぎから、新しい段階を迎えつつありました。有限的都市空間では、自動車の如き個人交通機関がどんなに便利であろうと、無限に増加することはできません。家計はもとより環境間題と渋滞問題で自動車には未来がないことが明らかになってきました。元来人間の町である都市が車の氾濫によって急激に住みにくくなってきました。従来車を便利にするために道路の増設、歩道橋、駐車場などを造るほど、車の数はこれを上回って増加し、混乱は一層助長されてきました。都市の自動車をどうするがは今や世界共通の都市間題の最大の悩みとなりました。近年は急速に市民の反対論が台頭し、当局も車の動きを規制する方向に政策転換をせざるをえなくなりました。脱車社会こそ世界の都市の課題です。車を批判すると同時に、車に代る新しい交通の在り方が要請されます。アメリカ国民のように自動車を日常の足として離せられない国では、車に代って公共的でしかも、個人交通ができる快適な新交通システムの開発が国家的援助の下で究明されつつあります。日本の都市のように大量輸送機関が初めがら完備している国では、車がなくても都市生活は十分可能であるにもかかわらず、家計やお金が豊かになると車は文明の表徴とばかり、道路や安全施設の体制と無関係に増やし、平地面積当り車の密度はアメリカの8倍にも達する車の世界一の過密国になってししまいました。そして車の公害も世界一となりました。このような背景の元に、日本におけるエコロジー運動は、脱車社会の新しい目標として、これからの最大の謀題となると思われます。
自転車を通して環境と健康を取り戻そう走いうバイコロジー違動が、最も車の普及したロスアンゼルスから起り、全米に深く静かに力強いブームを巻き起していました。この語はバイセクルとエコロジーとを組み合わせた新語であり、環境を破壊する自動車に挑戦し、人間性を回復しようとする国民運動です。自動車文明の害毒に最も痛めつけられたアメリカ人がこの運動にかける執念は十分理解できます。日本ではアメリカがバイコロジーというからではなく、別の立場でもっと積極的に日本式バイコロジー運動を進めなければなりません。自転車は子供に好かれる乗物だけでなく、大人の健康サイクリングに、買物、訪間、通動、家計やコミュニティの実用的として最適な乗物として再認識されだしました。自動車1台分のお金で自転車を家族全員がもっておつりがきます。今日では自動車に代って自転車に乗ることが優雅な生活のステイタスシンボルとなりつつあります。真似の好きな日本人のことながらこのブームは日本中に巻き起るに違いなく、むしろ狭い日本の方が自転車に適した国柄だからこの運動の必要性は高くなっています。自転車は天然エネルギーを全く必要とせずお金がかからず、手はハンドル、足は動力の全身遣動で、循環器、呼吸器、消化器、神経系統を活発にする万人向きの健康具です。自動車は目標に早く着くことに関心が向きますが、自転車は乗ること自体、そこへの過程が楽しいく、世界の子供が一番欲しがるものが自転車です。子供の心身発達に必要なものすべて備えていて人間形成過程に重要な教具だからです。ドイツにはトラックー台の新薬より、自転車一台という諺があり、欧米の都市は立派な自転車道を整備し、自転車の普及こそ健康のバロメークー、自転車こそ頭脳と身体に対する最も確かな回答としています。
自転車に乗りさえすればバイコロジー運動がやってくることにはならず、子供たちが、特定なサイクルロードや、自転車スポーツセンターでどんなに自転車を乗り回しても、それだけで環境はよくなりません。大人がマイカーの代りに自転車に日常生活の場で乗ることが必要で、通勤、通学、商用、買物、配達などの実用に自動車を捨てて、それを自転車に代行させることが必要とされます。

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